昭和49年12月29日 特別奉修委員
今日は熊谷さんの所の、所謂ご主人の二十五年の式年祭が、ご親戚お子さん達皆集まって、此処である訳ですけれども。昨夜からその事を、そのお願いさせて頂いておりますのですけれども、昨夜遅う此処に出て来て、天地の親神様のご都合もあり、御霊様のご都合もある。又それを奉仕する熊谷さんのご都合もある、又お参りをして来る子供やら孫達の都合もある。その辺のタイミングをやっぱ頂かなければなりませんからね。
やっぱお願いをさせて頂いておりましたら、丁度お風呂に入っておる人が、ちょっとぬるいという加減な所で、下から薪を焚いて熱くしてやりよる所を頂いたんです。そしたら中に入っておる人が、はぁ極楽と言った様なあの表情でおられる所を頂いたが。本当にあの私達が、是は御霊様でも同じ事ですけれども、あの極楽を願いながらもあの極楽ではない。ね、熱過ぎてもいけないぬる過ぎてもいけん、これ丁度いいという状態のん中にある。それにはどうでしてもなら遺族の者の。
そうした薪をくべる薪と言う事は真心と言う事でしょうけれども。その真心の奉仕がやっぱり、勿論日々の奉仕の中にも入るけれ、というけれども、特に、五年なら五年と言う様な、式年と言った様な事は、取分け大事にしなければいけないなと。例えて言うならば、その日々極楽のおかげを頂いて貰っておっても、ならその風呂が、まぁ箍(たが)が緩んでおるとか。あげなとこまぁ、新しく変えなきゃならんと言った様な感じが、その式年の事だと思うんですけれどもね。
合楽に御神縁を頂いておる人達は何時も其処ん所の調節を、あの取って頂いて、どんな思いをして見えても、皆さんが御理解を頂かれると、いやぁ本当に有り難いという気持ちになられる。いらいらしたり、寂しい思いをしたり腹が立ったり、そういう時には、結局丁度よい風呂ではなくて、熱過ぎたり温過ぎたりしておる時なんですから、御理解を頂く事によって、言うならば、丁度よい加減にして頂く。
そう言う事を、私はあの本当に神様に、言うならば合楽に御神縁を頂いておると言う事。そして、まぁ何時もとは言えんでも、そういう極楽な状態。おかげを頂いて有り難いという状態に、それを保ち続けさせて頂けれると言う事を、私は有り難いと思わなければいけないと思う。ね、御霊様も矢張りお風呂に入っておられて、極楽というおかげを頂き続けられれば良いけれども、ぬるい時もありゃ熱い時もある。そこの調節を取ってあげるのが、遺族である様に私共ならこの世にあって。
本当に此の世で極楽の思いをする。有り難い思いをする。そういう思いの調節を取って下さるのが、それこそ今日の御理解には、金光大神お取次ぎの働きだと思います。そういう金光大神お取次ぎの働きを日々、なら皆さんの場合頂いておられると言う事をです、だからよりもっともっと、有り難い心の状態にして行かなきゃならない。もっともっと有り難く思えれる信心を頂かなきゃならない。その有り難いと思うその思いが、高度になって来るところに、言うならば。
有り難い示現活動も出来ると言う物です。どうでも一つその示現活動を、是は願わにゃやっぱいけません。もう合楽示現活動させて下さいという願いを持つ。中村さん言っておられます様に、願っておると其処にちょっとその、そういう示現活動でも、させて貰わなければおられない人がある。昨日井上さんの所に、お商売で見えた方がおって、たまたま信心の話になって、もう話を聞きよる内に、されておられる内に、奥さん私の今、大変もやもやしとる事を一遍聞いて下さいっち。
言うてその、まぁいうならその身の上相談の様な事を受けられた。そん時に言うならば、自分の頂いておられる信心を、語られた。日頃頂いておられる御教えを頂かれた。もう本当に喜んでまぁ帰えられたと言う話ですけれどもね。思わず示現活動が出来たと。やっぱ願うておらにゃ出来ない、と言う事を言っておられますが。ね。矢張りあのそれを願わせて頂けれる、その心と有り難いという心が、相俟っていかなければいけない様に思いますですね。
どうぞ。